all or nothing 全か無か

人の心にははゆるみ(余裕)が必要だと思います。あいまいさ、気楽さ、怠けというのはがちがちになってしまわないための自己防衛なのだろうと思います。中間の部分ともいいますか。そんな中間の部分を持たずに生きるall or nothingの生き方というのは常に緊張感がつきまとい自分に厳しくなり、結果、行き辛くなっていくのではないかと思います。無駄ものっていうのは案外大事だろうなと思うのです。

1997年、渋谷円山町で殺人事件がありました。

1997年3月19日、東京都渋谷区円山町で女性の遺体が発見された殺人事件。被害者の女性が東京電力の従業員であったのでこの名が付けられた。

昼間は一流大学卒の東京電力の幹部社員で夜は娼婦と全く別の顔を持っていたことで、マスコミに興味本位に大々的に取り上げられ、被害者および家族のプライバシーをめぐって議論が喚起された。

この事件で被告人の外国人男性は冤罪を主張し、東京地方裁判所で無罪判決が言い渡されたが検察が控訴し、東京高等裁判所では無期懲役となり、最高裁判所で被告人の上告が棄却され刑が確定したが、再審を求めている。

事件が起きた場所を訪ねる被害者と同年齢のOLが相当存在するらしい。

ウィキペディア東電OL殺人事件 - Wikipedia引用)
もっと詳しく知りたい場合は
HP無限回廊 http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/touden.htm

被害者の女性が昼間は東京電力のキャリア総合職、夜は渋谷円山町のホテル街で雨の日も風の日も一日4人というノルマで異常ともいうべき自分に厳しい管理された街娼生活が人々にとっては非常にセンセーショナルであり耳目を集めました。被害者のプライバシーが彼女は被害者であるのにもかかわらずに次々に暴露されてゆき容疑者よりも被害者の方が有名になってしまったのです。

そんな事件から下記の長編ノンフィクションが出来ました。

東電OL殺人事件

東電OL殺人事件

被害者が円山町に立つまでのいきさつや殺されるまでの経過、著者の佐野真一氏が事件の現場を実際に歩いて取材し生前の彼女を知る人から(と言っても近しい人ではなくお店の人などですが)の取材などをして、誰にもわからない一番の謎「街娼となった理由」を推理してゆきます。
坂口安吾の「堕落論」を引き合いに出して堕落という言葉が被害者へのキーワードになり推理が進んでゆきます。
この部分に関しては著者の意地悪な主観と想像が入ってきているような感じも読んでいるとしてきます。堕落した彼女が自業自得で事件に巻き込まれた・・・当時の世論の見解の集大成のような気がするところと、男性の著者だからでしょうか?女性はみんな堕落したがっているのだというのも随分な話です・・・女性から共感が多かったというので続編で「東電OL症候群」という共感した読者の取材の本も出ています。
現代の堕落した巫女なんてちょっとオカルトチックな表現や勝手に円山町にある地蔵さんの前にあった譜面を持ってきて息子にピアノで弾かせてみたりもう脱線しまくりです。結論としては被害者の心の闇は迷宮入り。

そして後半は容疑者のネパール人、ゴビンダなんですが、こちらに関しては当初から冤罪という話もあり、著者のジャーナリスト魂に火をつけたのでしょうか、なんとネパールまで取材に行っています。そして拘置所に行ってゴビンダを励ましたり、裁判傍聴したりと勢力的に容疑者を援護しています。
そうなんです。ゴビンダの冤罪事件としてこの本は書かれたのではないかなーと思うの納得できるかも知れません。
被害者、容疑者両方を描こうとして混乱してしまったのかもしれませんね。
でもこの事件を知るには非常に貴重な資料ですので差し引きしても良い本ではないかと思います。

現在、ゴビンダ容疑者(受刑者)は最高裁で上告棄却され刑が確定、服役中、2005年3月再審を請求中です。
とどのつまり、被害者を殺したのは誰か?というこの事件の根本もまた被害者の心の中と同じく闇の中なのかもしれません。

この事件を題材に取って二つの小説が後日生まれました。

ダブルフェイス (幻冬舎文庫)

ダブルフェイス (幻冬舎文庫)

グロテスク

グロテスク

「ダブルフェイス」は男性作家、「グロテスク」は女性作家ということで事件を知り感じたことが男性と女性の観点で見解が違うと思います。
「ダブルフェイス」は軽い読み口のストーリー展開ですが、「グロテスク」は600ページに及ぶ長編、佐野氏の本を予備資料として読んでおくと話の臨場感が更に沸いてきます。

※被害者の方は摂食障害(拒食症)だったそうです。
かなりスリムというか痩せていたそうで、その点から考察すると自分の対して厳しい、all or nothing 全か無かの思考というのも理解することが出来るのはないかと思われます。
コンビニでおでんの具をこんにゃくしか買わないで汁をたくさん貰った話とか、電車で菓子パンをかじりついていたというエピソードは食べものに対して非常に厳しい部分とちょっとたがはずしたら暴食になるというall or nothingの振り子を常に行ったり来てたりしたからもしれません。食べ物の飢餓感もあったと思いますが、ざらざらとした乾いた心の飢餓感がいつも強かったので人間関係もall or nothingのような関わりになりそうだから、心の弱い部分を見せたくないからあえて街娼のような究極のドライな関わりを選択したのかもしれません。

孤高で生きていて苦しかったのではなかったのか、友人・・・心許せる友達・・・ベタな言い方ですが、もしそんな心を許せる人がたった一人でもいればまた人生が変わっていたのかもしれませんね。