寛永寺と徳川慶喜の墓所と谷中霊園散策

雨の降るGWの3日に上野に行ってきました。
上野山では動物園、博物館、美術館などに多くの人が訪れて大賑わい。家族連れなどたくさんの人でにぎわっていました。
そんな喧騒の上野山から東京国立博物館の裏手に寛永寺があります。
その昔は上野山も境内だったので、上野公園内には上野大仏(と言っても顔だけですが)、清水観音堂などが今もあって寛永寺の往時の隆盛をうかがい知ることができます。
・ ・・と書いているのですが、実は寛永寺には行ったことがなくて今回、初めての訪問なのでした。
寛永寺は正式名称を東叡山寛永寺頓院といい、天台宗関東総本山の寺院で、寛永2年(1625年)の三代将軍徳川家光の時代に天海上人が開山しました。ご本尊は薬師如来です。

徳川将軍家の祈祷所、菩提寺となっているので歴代の将軍のうち6人が寛永寺に眠っているというお寺です。家光が天海上人に大きく帰依していたために元々の菩提寺であった芝の増上寺とあわせて徳川家の菩提寺は二つとなり、家光、家綱、綱吉は寛永寺に葬り、6代目の家宣が増上寺に葬られて以降は、歴代将軍は寛永寺増上寺に交互に葬ることになったのだとか。天海上人のススメで家康を祀る豪華絢爛な日光東照宮を作ったくらいですので絶大な信頼を寄せていたのがうかがい知れます。

中に入ってみると、お堂(根本中堂)がありました。
感想としては凄く大きな寺院を想像していたのでこ振りでびっくりしてしまいました。

それもそのはずで、上野戦争のときに本堂など消失してしまったので、明治になってから川越の喜多院の本地堂を移築してきたのだそうです。私はこのエピソードを知って川越には良く行っているので喜多院にもなじみがあるためかこのお堂に妙な親しみを覚えてしまいました。

寛永寺を参拝した後には裏手にある、谷中墓地を散策してみることにしました。谷中墓地には多くの著名人のお墓があって探訪する地図をくれるくらい広い敷地の墓地です。雨が降る中で地図もなく散策をしてみました。
墓地の中を歩いていると個性的なお墓が結構あるのですね。
面白かったのは墓地なのに鳥居が建っているお墓がいくつもあったことです。小さな神社にある鳥居よりも立派な石の鳥居があったりしてびっくりしました。
また最近のものだとお墓の主を守るかのように二匹のライオンがいたり、女性のブロンズ像などバリエーションもさまざまで面白かったです。

そんな中たくさんの墓地の建ち並ぶ中に葵のご紋の意匠のつく柵で厳重に囲ってあるのが、徳川慶喜墓所です。
 

墓石が丸くて見たことがないデザイン。大仏さんの頭のようでもあり、なんとも不思議な形です。左側が慶喜のお墓です。徳川慶喜は将軍職を辞した後に公爵となり大正2年(1913年)に享年77歳の生涯を閉じましたが激動の時代に翻弄され数奇な人生を生きた方だったと思います。

墓所の前にはなぞの自転車に乗ったおじちゃんがいて、この墓所のことと合わせて慶喜の親族の方のお墓についての説明、墓碑銘の読み方など詳しい説明をしてくださって大変勉強になりました。はて、あのおじちゃんは一体何者だったのだろうか?と谷中墓地の終わりにふと思った次第です。