桜の森の満開の下

気が付けば、4月になり桜が咲き始めたと思ったらあっという間に満開になっていました。
いたるところで桜がこの世の春を謳歌しているように、咲き乱れています。
そんな中、今年も我が家の近くの公園の1本桜も昨日に満開を迎えました。
近くの入間川の土手はきっとたくさんの人でにぎわっていることでしょうが、やはりこの小さな桜の木がいいなぁと思います。


花を見ようという気持ちもわくことのなかった昨年からの私ですが、御蔭の桜が呼んでいるような気がして、緑の人とお花見をしてきました。

亡き、義父と義母にこの満開の桜がとどきますように

義母の死から・・・一周忌と命日

年が明けて気が付いたら2月ももう終わりになっていました。
2月14日に菩提寺にて義母の一周忌を執り行いました。
親戚の方も参加してくださり、たくさんの思い出話に花が咲き天国の義母も喜んでくれたかなぁと思いつつ涙をこらえました。その時に親戚のおじさんがおっしゃってくれたことが私の心にとても響きました。
「喪が明けるというのは四十九日や一年などの区切りではなく、その人の心の中で明けるまで。それまではずっと明けなくても良い」という言葉です。
おじさんの父上が亡くなったときは、悔いはなかったそうです。それはおじさんが死ぬまでに、できることはすべてしたという事があったからの言葉だと思います。
旦那やその弟達はできることをしてあげることもなく、突然時間を切断され義母は天国に行ってしまいました。親族の誰にも看取られることもなく・・・・。そんな思いを汲んでの話をしてくれたのだと思いました。

そして、2月17日がまたやってきました。
昨年のあの日のとても寒かったこと、病院から自宅に戻るときの雨の冷たかったことが今も昨日のように記憶から離れません。
私たちの時間は止まったままなのだなということを嫌というほど感じた命日でもありました。旦那は今もあの事故のあった交差点に行くことがとても苦痛だと言っています。
刑事裁判が終わり、加害者は執行猶予がついて現在シャバにいて自由ということが、司法の裁きが終わったといえども、私たちの心の中では許せないのです。そう思っちゃいけないのでしょうか?私はキリストのような寛容な人間にはなれません。

今年に入って民事訴訟に入りました。
弁護士さんを通じて相手の損害保険会社とのやりとりをしていましたが、弁護士さんの背中押しもあって訴訟に踏み切りました。
先日の22日に第一回口頭弁論がありました。民事訴訟の場合は、弁護士さんが出廷をするだけで進んでゆくそうなので、今回は私たちは出廷をしませんでした。
今日、口頭弁論での相手からの答弁書の副本が届いたので目を通すと、当たり前ですがこちらの主張を却下しまくっておりました。
義母は弟と同居をしていて、死の時まで食事作り、洗濯、掃除もろもろの家事をしていました。身体が悪くなってもしておりました。なのに答弁書には軽く訳すと「年寄の婆さんなんだから家事従事なんてできるわけないでしょ!やっているなら証拠を見てよ!フンっ!」とありました。
あのー・・・・私の76歳になる生きている私の母はバリバリ食事作りやら家事に今日も従事していますが、弁護士先生は年寄はみんな家事しないとでも思っていらっしゃるでしょうか?ついでに単発でお仕事もしてますが・・・。他にも80歳でも元気に家事している人もいっぱいいる環境の地に住んでる私がおかしいのか?おかしいのか?と自問してしまいました。
特にムカついたのは「墓前の墓参りは行ってやるというのに来るなと言われたからいけなかっただけ!葬儀にはちゃんと出ているでしょ!事故現場に献花もしたんだからもう充分謝ったんだからがたがた言うな。これでいいでしょ!」という部分・・・・。
マジで目の前にいたら、この女弁護士ぶっ飛ばしたいと思いました。
他にもあれやこれや請求を却下してきているようです。やれやれ・・・。
第二回口頭弁論は3月だそうです。長い戦いはこれからです。

そうそう、いつも行く近所のセブンイレブンで昨年に加害者の会社の社長さんにお会いしてしまいました。あちらは気づかなったようでお子様と楽しそうにしていらっしやいました。思っちゃいけいないのかもしれませんが、なんだかもやもやしました。

私たちにも楽しかった義母と過ごした日常を返してください。

裁判なんていいだよ。かあちゃんを返せ!って叫びたいです。

義母にプレゼントしたかった大好きなラベンター色のクマです。喜ぶ顔が見たかった・・・。

義母の死から・・・その後

気が付けば、もう10月の半ばになっていました。
義母の葬儀を慌ただしく終えた2月のあの日から半年がたっていることに改めて驚きます。

そして、四十九日法要、納骨を済ませて、新盆、お彼岸を迎えてもまだやっぱり実感がないんです。私たちにとって時間はあの日から止まったままなのです。

6月に相手側の判決が出て、控訴しなかったので、そのまま判決通り、過失運転致死、禁固1年4月、執行猶予3年という刑が確定し、刑事裁判は終わりました。
相手にとっては区切りなんでしょうね。私たちは違うけれど。

今回の事件に当たってはたくさんの方に相談に乗ってもらい、裁判の時点で会社で懇意にしている弁護士さんに依頼をして、傍聴同行をお願いしていました。
裁判が終わった後に、事件記録が見られるというので弁護士さんに謄写をお願いをしていました。そして、先日やっと、取れたという連絡があり、一昨日に我が家に郵送で送られてきました。

届いた書類は「刑事起訴記録」というものです。
100ページに及ぶ事故の記録が生々しい現場写真とともに記載されていました。

一番辛かったものはゴミ集積車の前方下に挟まったままの自転車が写し出されていた画像を見たときです・・・。
義母があんな、狭いところに挟み込まれていたなんて・・・さぞ痛かっただろうと思うと辛くて悲しくて・・・。

そして、現場検証の画像をみてやはり思うことは、どうしてこんな見通しの良い場所で事故が起きてしまったのかという疑問なのです。
あの道路を通るたびに、同じようにもう数えきれないくらい自分で車を運転して走って検証しました。でもやっぱりどうしても理解できないのです。
そして、交差点に相手が置いたであろう献花があることがとてもやりきれない気持ちになるのです。裁判でも献花を主人がやめてほしいと言ったのにね・・・。

たまーに事故を起こした会社の車輛に出会うことがあります。車両の後方に「交差点進入時注意、高齢者、歩行者注意」とステッカーが貼ってあるのですが、事故時の車輛にはついていませんでした。
事故後につけたのでしょうか?だとしたらそれ以前はそういう注意喚起をしていなかったのか?とも考えてしまうのです。

弁護士さんに相手との交渉をお願いしているので、こちらに直接連絡が来ることはないのですが、裁判後に相手側からお墓詣りに来たいと矢の催促があったそうですが、お断りしました。

遺族の悲しみを少しでも理解してほしいと思うばかりです。

義母の事故死から・・・ 

2月17日に突然の交通事故により亡くなった義母。
葬儀も終えて四十九日法要も終えて義父のいるお墓に入ったわけですが、残された遺族である私たちのやりきれない思いと苦悩は益々大きくなっているのかもしれません。

交通事故の相手、義母をひき殺した相手、加害者がいるという現実を嫌というほど感じさせられた約4か月でした。

交通事故の相手は男性で私と同じくらいの年齢の40代会社員。業務中だったそうです。
一般ゴミや事業ゴミの集積をする会社に勤務していて、ゴミ集積車を運転中、六差路の交差点を右折して曲がろうとしたときだったそうです。
右折側にあった横断歩道を青信号で自転車で渡ろうとした義母がいたのに気が付かずにぶつかり、義母は自転車ごと転倒し、集積車前方運転席下に巻き込まれ、引きずられたまま走行されてようやく停止をしたそうです。
現場検証をした警察官の方にお聞きしたところ、大きな事故で、自転車を電気カッターで切断しての救出だったそうです。集積車の低い車高の下に入り込んでしまった義母は骨盤がぐちゃぐちゃになるほどの損傷を受け大量出血していたと聞いたときには気を失いそうになりました。

連絡を聞き、搬送された病院に到着したときにはすでに亡くなっていました。
唯一救いがあるとすれば、昨年、膀胱がんの治療でお世話になった総合医療センターに救急車がたまたま運んでくれて、その時にお世話になった先生が必死に蘇生をしてくれたことです。これはきっと何かの縁だったのかなと先生もおっしゃっていました。

その後、自宅に戻ってきて、慌ただしく葬儀の準備に入り通夜、告別式にはご近所の方を含め、たくさんの方が参列してくださいました。そして、義母の突然の死を悼まれてくださいました。
しかし・・・通夜を終えた後に参列者の芳名帳を整理しているとなんと、加害者の会社の代表他社員、そして加害者本人の名前があったのです!
・・・・私たちに何の断りもなく、加害者たちが焼香をしていたということに怒りを覚えました。
翌日の告別式も参加したい旨の記載があったので翌日は葬儀社さんから連絡をしていただき参列を拒否しました。
このあたりから加害者への不信感が強まってきていました。

いきなり、葬儀が終わった後に訪宅をするような勢いが怖かったので、警察を通して四十九日が終わるまでは連絡をしてほしくない旨を伝えてもらいました。

4月になり、四十九日法要も無事に終えて、一安心していたころに加害者側の損害保険会社の担当から夫に連絡が入りました。
示談の話がしたいということ。そして、加害者と加害者の両親、加害者の勤務先の会長、代表、役員が義母のために線香をあげたいということでした。
総勢7名で押しかけてきたいとの要望は、到底受け入れることはできませんでしたので、加害者と勤務先の代表のみの訪宅を許可し、5月8日の母の日に保険会社の担当とともにやってきました。
加害者と代表には線香だけをあげてもらい、献花、供物は遠慮させていただき、お詫びの言葉が一言あったと思いますが、それ以上同じ席にいるのが耐えられないのでご退室願いました。これからももっと来たい。お墓にもいきたいと言っていたそうですが、もう来ないでほしいとの旨伝えました。
この人たちは相手の気持ちは全く考えず、自分たちがこれだけやったやってやったという積み重ねだけがほしいのでは?と感じ違和感と不信感がさらに募ってゆきました。

そして、保険会社の担当者は輪をかけて・・・ホント酷い対応でした。
保険の話で義母のことを「死んじゃったから」って言葉何回言ったでしょうか?かなり連呼していて覚えているのはこの言葉ばかりです。
要はとっととこれだけ保険金をあげるから示談書書けって感じですかね。
まぁ、それが彼の仕事なんだから仕方ないけれど、私が出会った保険担当者の中で最低ランクに入る言動とお人柄に感動すら覚えました。

後で気が付くのですが、刑事裁判が始まるまでに示談のアクションを何かしらしたかったみたいですね。
でも、刑事事件の日程とかこのときすでにわかっているのにはぐらかして「うちは刑事裁判は関係ないですから」って感じです。ホントは結構関係あったのですけれどね、この一件で保険会社にも不信感を持ちました。

刑事裁判の通知はもらえるように警察で遺族調書を作るときにお願いしていたので、4月の終わりには検察庁から通知が到着していました。
裁判前に検察庁に夫と出向き、検察官から事件記録を見せてもらうと、事故の概要が詳しくわかりました。裁判の傍聴もできるというので参加することにしました。
裁判では意見陳述もできるというので、夫が義母の無念の思いを裁判で述べることにしました。

5月の終わりに裁判が行われました。
刑事事件の裁判を傍聴するのは、まして遺族として参加するなんて全く初めてのことです。
夫と義弟、そして私の三人で傍聴をしました。
結果としては、傍聴して良かったと思います。
事件の詳細がよくわかりました。しかし、それにも増して怒りを禁じえないようなことを加害者、弁護人から聞かなくてはならないことが本当に苦痛でした。

加害者から見たこれまでの経過としては、葬儀には出席しました。告別式は出ようと思ったけれど、拒否されたので外から手を合わせました。謝罪文を書きました。受け取ってもらえませんでした。訪宅をしました。献花も持って行ったのに拒否されました。3分しかいられませんでした。加害者の謝罪やアクションを全て受け取らないお前らが悪いと言われている感じがしました。

そして、その押しつけの極みが判明したのです。
事故現場の交差点の電信柱には献花がいつもくくりつけられていました。事故直後は義母の親しい方たちが献花をしてくださったと聞いていてそれはありがたいと思っています。しかし、その後もずっと献花があり、私たち遺族としては義母の魂がここにずっととどめさせられているような気がして、もうやめてほしいと常々思っていました。
そして、裁判でこの献花の主が判明したのです。
加害者と加害者の両親が献花をしていたと・・・・。
裁判まで毎日やってきたから情状酌量の中にいれてほしいというような内容でした。
なぜか裁判では加害者の両親がやたら介入してきまして、これも非常に違和感を感じました。だって40代ですよ?20代だったらまだしも・・・・。

裁判が終わった後はさっさと退席しようと思ったのですが、加害者と両親に取り囲まれて「申し訳ありません」と謝罪されたのですが、これも正直言って裁判官へのパフォーマンスにしか見えませんでした。

裁判の終わる手前に遺族代表として夫が意見陳述をしました。原稿用紙3枚半ほどでしたが、私たちの思いを裁判という公的な場で述べさせてもらうことができました。

判決は次回に持ち越しとなり、昨日、判決が出ました。
結果は禁固一年四か月、執行猶予三年です。
前科がないことなどもが考慮されて執行猶予がついたようです。
人を殺してこれだけ?と思うのですが、交通刑務所の不足、交通事故の刑事事件の多さから刑は概ね軽いのが実情だと事前に知らされていたので、大きなショックはありませんでした。私たちにとっては義母はもう戻ってこないのですからどんな重刑でもむなしいだけです。

判決が出て退席しようとしたときもまたまた加害者の母親がこちらに駆け寄ってきて「申し訳ありません」と連呼してくるのでほとほと困りました。
加害者本人、父親もやってきて謝罪しているのですが、私には全く響いてくることはなく、「この人たちに何を話しても通じないのだろうな、自分のやっていることが正義なんだろうな、相手のこと、受け手のことなど考えずに自分たちの辛い思いをどんどんこちらに山積みにして置いてゆく」のだなと思いました。

加害者にとっては、刑事裁判が一つの区切りになったのでしょうが、私たちの遺族の心の平穏が訪れるのはまだまだ先のことなのに・・・。

これが昨日までの経過です。
本当に疲れました。

2月17日からいろいろありすぎて、ブログで書かせてもらって少しすっきりしました。
また、今後の経過もつらつらと書きたいと思っています。

最後までお読みくださりありがとうございます。